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超高齢出産・生れた私は超大変

            
            たかさき さくら                                           
はじめに
 このお話は、私の歩いてきた人生そのままです。世の中には、いろいろな経験を積まれ、生活なさっている方がいらっしゃいます。その中にはこんな人もいるんだ…そう思って読んで下されば幸いです。

☆超高齢出産

 私の父は、右足に変形があり、普通に靴を履いて歩く事が出来ませんでした。いつも、雪駄を履いていました。短距離なら歩行も出来ましたが、主な交通手段は「自転車」でした。ですから、父とはあまり遠くへ行った事はありません。職場は家で、そこで紳士物の洋服の仕立てをしていました。
数人のお弟子さんが居て広いテーブルにそれぞれ生地を広げ、各々作業をしていました。
足踏みミシンが三台、ジクザグミシンが一台ありました。アイロンも、年代物で、かなり重い物でした。スチームアイロンもありましたが、遣っているところなど、ほとんど見たことがありませんでした。母は、働き者で、じっとしていることがありませんでした。気が強く、多少の事には動じませんでした。
そんな我が家、父・母・犬一匹。この家族に私が生まれました。普通の出産ではありません。四十七歳の超高齢のしかも初産です。普通ならば、妊娠の確立も低く、障がいを持つ確立もかなり高くなります。しかし、私は、何の障がいもなく生まれました。それが、唯一神様が私に下さったお恵みのようでした。 さて、四十七歳の出産と聞いても、いまひとつピンとこないと思います。詳しく書けば、父は大正三年生まれ、母は大正七年生まれです。その両親に昭和四十年に子供が生まれたのです。孫が生まれたようなものです。父はもとより、母も昔風の子育てしか知りません。
今は、高齢出産の方も増え、いろんなところから育児の情報が得られます。しかし、我が家の場合、今の四十七歳の人がお産をするのとは、わけが違うのです。

☆「家族」

三人と一匹の家族に、昼間は、お弟子さんが居ます。食事の支度は母が行います。私は、布団に寝たまま。暇をみて、母や、お弟子さんが子守をしてくれていました。枕元に「姉」のるみ(犬)が子守をするかのように座って居たそうです。よその人が来て、私を抱こうとすると、うなり声を上げていたそうです。
 アイスクリームも犬の方が私よりお姉さんなので犬が一カップなのに、私は、小さいからと半分しか食べさせてもらえませんでした。
おもちゃも犬と取り合いです。今、犬が大好きなのも、犬と育ったためだと思います。今でもくやしかったのが、「買い物かご」です。私は、おもちゃのピンクの買い物かごを持っていました。当時はレジ袋などなく、買い物というと、買い物かごを持って行くのが当然の行為でした。母が買い物に行くと言うので私も買い物かごを持ちました。すると、犬の「るみ」が私のかごを取ろうとするのです。しばらく二人(?)でひっぱりっこをしていましたが、母が私に「新しいのを買ってあげるからそれは、るみにあげなさい」と言いました。渋々かごを、るみに渡すと、るみは喜んで買い物かごをくわえ、買い物について来ました。でも、結局私は、新しい買い物かごは買ってもらえませんでした。未だにあのかごがくやまれます。るみの散歩は夕方です。従姉妹の家の犬のホープと一緒に行きます。散歩のルートに木材製作所があります。ある日、木くずがモコモコモコと動いたのです。母が
「ほら、お化けだ」
といいました。私はものすごく怖かったのですが、「お化けを見たことがある人なんて、そんなにいないはずだ」と、次の日、保育園で、お化けを見たと、自慢話をしました。そして、この「お化けを見た」という話は、中学に入るまで信じていました。
 
☆ランドセル

入学前に、説明会・入学後に必要なものを購入するため、母が学校に行きました。「帰ってきたら、その手には赤いランドセルがある」と思うともう、待ちどうしくて、待ちどうしくて、何をして時間をつぶそうかと考えるほどでした。おままごとをしても、お絵描きをしても、一向に母は、帰って来ません。テレビを見ても、どのチャンネルも「浅間山荘事件」しか放送していません。何故どこも同じ番組をしているのか、私には理解できませんでした。何度か、テレビをつけたり消したりしましたが、同じ番組でした。どれほど、母の帰りを待ちわびたことか。再び、お人形遊びをしても、おままごとをしても、時計を見ると、三十分も経っていません。…その母が帰ってきました。しかし、その手にあったのは、黄色い「ランドセルではない物」でした。一体何だろう?母に聞くと、
「今年からランドセルは使わなくなって、この鞄で学校に行くんだって」
との話でした。『これって、リュックサックじゃない!』私の市では、ランドセルは重く、児童に使用させるのにはもっと身軽で安全な良いものがないかと考えられ、リュックサック(今では、もっとランドセルに近い形で、ランドナップという名前になっています)で登校する方向で、我が校が市内で初のモデル校となったのだそうです。なんと運の悪い事か。あれほど憧れた『赤いランドセル』は夢と消えたのです。何時間待っていたのでしょう。どんなに楽しみにしたことか。確かに鞄は軽いです。でも、とても『かわいいと』か『素敵と』いう言葉からは、かけ離れていました。気に入らない黄色いへんてこな鞄で登校しました。近所の人々にもこの見慣れない鞄に、
「今日は遠足なの?」
としばらくの間聞かれ続けました。

☆入学式
 
入学式を迎えるにあたって、父が知り合いの女性物の仕立てをしている方にワンピースを作って貰っていました。朱色のパフスリーブの可愛いワンピースでした。実は、カタログを見て打ち合わせをしていたので、本当に楽しみにしていました。ところがってきたの
ってきたのは、なんともシンプルなワンピースでした。ランドセルに続いてニつ目のショックでした。この頃は机が色んな機能がついていて、時計、鉛筆削り、『ここまでしなければならないものか』とテレビでも問題になっていたのを覚えています。私は、大学生が使うような、木製の大きな机を買ってもらいました。なぜだか、はやりの机に反発してみたくなったのです。鉛筆削りは『赤くて、かわいいのがいいなぁ』と思っていましたが、買ってもらえたのは、昔ながらの机に取り付け、手でぐるぐる回して削る物でした。 「電動の赤い鉛筆削りがいい」 と言いました。
「大きくなったら、自分で買いなさい。」
と言う母。大きくなるまで、これを使うのかぁ…と鉛筆削りを見つめました。結局、大きくなったら、鉛筆など使わないので、電動鉛筆削りは我が家に登場する事はありませんでした。 
入学式当日です。さぁ、学校へという時、ここで父母に問題が持ち上がりました。『名札』です。すぐに解決策が出たようです。名前を書いた白いハンカチを胸につけ、母と登校しました。しかし、すぐにその名札は無用になりました。受付で、名札を頂いたからです。
いよいよ明日から勉強が始まる…前日に教科書を準備しなくてはなりません。しかし、大正七年生まれの母には、見る物、触る物、初めての物ばかりです。時間割に書いてある『ずこう』…そんな教科書はありません。どうしよう…隣に、親戚の一家が住んでいました。そこには三歳年上のお兄ちゃんがいます。考えた末、隣に聞きに行くと『図画工作』の事だとわかりました。教科書を揃えるだけでもこの騒ぎです。リコーダー、分度器、この後も母に分からない物が続出するのです。母は、大変だったと思います。

   ☆ストレス

 私は、極度の人見知りでした。お友達は、「M子ちゃん」だけです。M子ちゃんが一緒だと、他のお友達とも遊ぶ事が出来ました。それでも、毎日の学校生活は辛く、髪型をおかっぱにし、少し下を向いて「カーテン」を作り、友達の顔が見えないようにしていました。しかし、それだけではストレスはどうしようにもなりません。とうとう、ニ学期には胃潰瘍で入院してしまいました。                     ストレスは、友達だけではありません。好き嫌いの多い私には、「給食」が苦痛です。特に、「肉」は何をどう頑張っても食べる事が出来ません。クラスメートはどんどん食事を終え、遊び始めます。教室で一人肉をつついている私…。ある日、先生が「たまには、変わった所で給食を食べましょう。椅子を廊下に並べて。そこに給食を乗せます。正座して食べるんですよ。食べ終わった人から、教室に入っていいです。」一人、また一人と教室へ入って行きます。当然私は一人、廊下で正座して肉をつついていました。今にもその目から涙がこぼれそうになりながら。いつものパターンだと、そのうち、休憩も終わり、掃除の時間です。それでも私はまだ、教室の片隅に立たされ給食の肉をつついています。
「いつまで食べてるんだよ」
掃除の邪魔になっている私に、男の子が言います。そこでやっと先生からお許しが出ます。これが毎日です。給食は大嫌いでした。

☆自転車

ある日、父親が突然、どこかから自転車を貰ってきました。新品ではない。車体が、派手ではないオレンジと青で塗り分けられていました。新品でなくても、とても嬉しかったです。はじめは、補助輪をつけて走っていましたが、だんだんと周りのお友達が補助輪なしで乗れるようになってきて、私も、補助輪を外して貰って、近所の神社の境内で練習をしました。何回転んだことでしょう。でも、
『みんなのように乗りたい』そう思って、がんばりました。膝やくるぶしに絆創膏を貼って、みんなに追い付きました。自転車には乗れるようになりましたが、意地悪な男の子には、2色の自転車が変だとばかにされましたが、何が変なのか、私には分かりませんでした。ただ、ベルの隣に、父が良かれと思ってつけてくられた「パフパフ」なるラッパのようなのは、私も困りました。ひやかされても、私も全く同じ心境なので、言い返せないのです。

☆掃除
 
ニ年生の時のことです。掃除は、三人のほうき係がいて、後の全員は、雑巾で教室の端から端まで一人、一人その後を拭いていきます。ほうき係はM子ちゃん、私、もう一人女の子で固定されていました。私のほうきは、本当に掃きにくく、毎日嫌な思いをしていました。三本のほうきで、一本だけ掃く所がくるっとまるまった、もう捨ててもいいようなほうきでした。ほうき係を決められた時、掃除用具入れを開けたとたん、早い者勝ちでほうきがそれぞれの手に握られました。私は、捨ててもいいようなほうきが当たりました。掃きにくい、こんなほうきが、どうして一本だけあるのか?元気のいい子なら、
「先生、このほうき掃きにくいです」
と言うでしょう。でも、私は言えず、数日が経ちました。とうとう嫌になった私は、M子ちゃんにいいました。「ほうき、毎日いろんなのに取り換えっこしようよ。私のほうき、掃きにくくて嫌なの。私だけ毎日これを使ってるの嫌」すると、何を話してるんだと野次馬が集まってきました。すると、全く関係のない子が
「かけっこで早い人から、好きなほうきを使えばいいじゃない」
私はあきれました。ほうきを使う話なのに、どうしてかけっこがでてくるのでしょう?
「その決め方はおかしくない?」
これだけの事が、私には言えず学校の玄関前の池の周りを一周し、早い人から好きなほうきを決める事になりました。どう考えても、一番外側の人が不利です。その不利な場所に私はいました。かけっこの結果、結局今まで使っていたほうきがそれぞれに与えられました。自分の気の弱さの結果、こうなってしまったことが、涙が出るほど嫌になりました。

☆嫌なのに…

私は、保育園の頃から絵が得意でした。私が絵を描きだすと、必ず先生が後ろから見ています。それが、たまらなく嫌でした。なんだか私が悪いことをして見張られている気分なのです。しかし、年長の時には、全国規模のコンクールで賞状をもらいました。小学校に入っても、県レベルや校内レベルで賞状をもらいました。小学ニ年生の時は、国語の授業中に、先生に、
「ちょっときて」
と呼ばれ、図工の時間に描いた絵を完成させるように言われました。廊下で床に紙を置き、一人絵を描いていました。それは、コンクールに出すための絵でした。事情を知らない私は、まるで、お仕置きをされているようで、とても嫌でした。
また、私は走るのが早く、徒競争では、いつも一位でした。なので、当然、毎回リレーの選手に選ばれるのです。人に注目されるのが嫌で、しかも、負けられないというプレッシャーがかかり、嫌でした。『運動会なんてなければいいのに』毎年そう思っていました。

☆参観日
 
参観日は、いつも母が来てくれていました。
S君のお母さんは若くて綺麗で評判でした。いかにも賢そうで、優しそうでした。教室に、次々とお母さんが入ってきました。みんな、どのお母さんが誰のお母さんか当てっこをしていました。四年生のこの日も、母が来ました。着物を着た母は、いつもより綺麗に見えました。しかし、参観が終わると、いじめっ子のM君が、私の所へやってきて、
「なんでお前んとこ、お母さんじゃなくて、おばあちゃんがくるんだよ」
と聞きました。…私のお母さんは、おばあちゃんみたいなの?…考えたこともありませんでした。そうだ、確かに、S君のお母さんと比べると、随分年が違いそうです。黙っているとさらに聞いてきます。『どうせ、いじめられるんだ、何を言っても同じだ』そう思い、こわごわと、
「あのね、お母さんが年をとってから私が生まれたから、私のお母さん、みんなのお母さんより年をとっているの…」
どんな意地悪な言葉が返ってくるんだろう…ビクビクしていると、
「ふ~ん。年なんか関係ないよな。お母さんなんだからいいじゃん」
そう言って教室を出て行きました。いつもなら、すごく意地悪な事を言ってきたり、蹴ったり、叩いたりされるのに、優しい言葉をかけられ、私は呆然とM君の後ろ姿を眺めていました。

  ☆父の病気
 
いつからかは、はっきり覚えていませんが、小学校に入る頃には、お弟子さんも全員いなくなり、父は、たまにしか仕事をしなくなりました。それも、仕事をしているのがみつからないように、一階の仕事場ではなく、ニ階の私の部屋でです。私には、何がどうなっているのか分からなかったのですが、仕事もほとんどしていなかった事を考えると、おそらくその頃にはもう、生活保護世帯だったのかもしれません。私は、給食費もみんなのように、封筒にお金を入れて持って来て、お金を払っていた記憶がありません。給食費の集金日には、ニ~三人特別枠のお金を持ってこなくて良い児童がいて、私もその中に入っていました。小学生のうちはよかったのですが、中学生になると、集金係の子が毎日「早くお金持ってきてよ」
と言うのです。私は
「明日は持ってくるから」
と言ってごまかしていましたが、どうしたものかと悩みました。すると、ある朝、集金係の子が
「ねぇ、いつお金持ってきたの?先生のハンコが押してあるけど」
と言うのです。もう、私には、どうしようもありません。そこへ丁度先生が通りかかり、「あ、お母さんが学校に持ってみえたんだよ」と言って下さいました。とりあえず、みんなのようにお金を払い、後で返して貰うシステムにならないものかと、毎月悩むのでした。

☆第二次性徴期
私は、保育園の頃から体格がよく、年長組の頃には、バスに乗るのに料金を請求されるほどでした。母が
「保育園児です」
と言っていましたが、身長が、他の子より頭一つ分くらい大きい私を車掌さんはどこまで信じてくれていたのでしょう?         
小学校の四年生の時、母が、タンスから綿花とガーゼを出してきて
「これから言う事は、大事なことだから、よく覚えといてね。そのうち、パンツに血がいっぱい出る事があるから。その時は、あわてなくていいから。病気じゃないからね。このガーゼに綿をこのくらい包んで、パンツに充てておきなさい」
そう言われました。母と診療所に行った時、その話になり、母が、こう教えたのよと看護師さんに話しました。すると、看護師さんに、「今はね、ナプキンと言って、専用のいいものがあるのよ。薬局に行って買ってあげて」
と言われました。帰りに、薬局でかってもらいました。

☆我が家の食事

小学校四年生で転校をしました。市営住宅で、前の家より、随分狭くなりましたが、家賃は、子供の私でも驚くほどの安さでした。
ご飯はというと、大正一桁の母が作る料理です。魚料理・野菜の煮物が中心です。しかも、野菜を多めに煮て、ニ日間くらい同じものを食べるという母の工夫がされていました。私は、食に欲がなかったので、お茶碗一杯のご飯をノルマとし、終わればそれでよしとしていました。ある日、夕食時、夫婦喧嘩になりました。父がお膳をひっくり返しました。私は、びっくりして、茶碗とお箸を持ってじっとしていました。母は、顔色一つ変えず、淡々と片付け、また、新しい料理を『二人分』お膳に置きました。母と、私の分だけです。父が
「俺のは?」
と聞くと、
「いらないからひっくりかえしたんでしょう?」
と知らん顔です。母には兄がいますが、子供の頃、お兄さんが泣かされて帰ってくると、しかえしに行っていたそうです。その気の強い母、お膳をひっくり返されたくらいは何とも思っていませんでした。その日、父はひもじい思いをしながら床についたのでした。いつも野菜と魚中心のメニュー。野菜の煮物・刺身・焼き魚…そんな感じでした。しかし、世の中に、スパゲッティやグラタンなどという物があると知らずに育ちました。それはちょっと残念です。

  ☆メガネ

近眼の私でしたがいつも席を教室の前の方にしてもらっていました。すると、クラス一番頭のいい女の子が、「いつも席が前でずるい」と苦情を言ってきました。
「だって、目が悪いから、後だと黒板の字が見えないんだもん」
と言うとその子は
「じゃ、メガネ作ればいいでしょう!」
なんと簡単に言ってくれるんでしょう。うちにそんなお金はありません。涙が出そうになるのをぐっとこらえて、下を向いていました。結局、メガネは、中学三年生で、美術の授業でデッサンをするため、細かい凹凸が見えないと困ると言うことで、無理をして作ってもらいました。洋服は、親戚のお姉さんのお下がりばかりです。少々しみがついていようが、色あせていようが、文句は言えません。買ってもらえるのは、お盆と、お彼岸だけでした。これは、母の実家に墓参りに行くために、恥ずかしい格好をしていないようにという体裁のためでした。
母は、兄妹の中で一番末でした。そして私が高齢出産で生まれたため、従姉妹とはニ十歳は離れていました。ある従姉妹の子供と私は同い年でした。そして、その従姉妹の妹は高校生でした。もう、誰と誰がどういう関係か、人には分からない年齢構成でした。
  
  ☆ミシン

中学一年の時、夏休みの宿題で「ミシンを使ったもの」という課題がでました。うちのミシンは使う人がいなくなり、動かなくなっていました。仕方がないので、ミシンを買ってもらいました。決して安い買い物ではありません。これだけあれば、何日分の食料になるでしょう。母に申し訳なく思いました。

  ☆門限 

 私の門限は十七時でした。小学生のころから、高校生までずっと変わりませんでした。
外で遊ぶ事が多かった小学生時代は腕時計を
もっているわけでもなく、ひたすら遊んで、
夕焼け空を見て、そろそろ帰ろうと、家に帰っていました。すると、もう六時前だったりするのです。すると、母は、
「何回言ったら分かるの!五時には帰りなさいって言っているでしょう!」とものすごいけんまくで叱ります。しかし、時計がなくて、どうやって五時までに帰れというのでしょう。小学校の高学年になった時、従姉妹がかわいい絵の描いてある腕時計をくれました。それ以来、門限破りはおさまりました。

☆父の病気悪化
 
思えば、お弟子さんがいなくなった頃からでしょう。父は、病気でした。父はお酒が好きで、毎晩飲みに行っていました。いい加減な時間になると母が私に、帰るようにと言う様に伝令をするようになっていました。たまに、ミイラ取りがミイラになることもありました。そこの料理を食べて私はご機嫌でした。父は、きっと肝臓が悪かったのでしょう。五年生の時に父の病気が悪化しました。入院し、母が付き添いました。私は、従姉妹の家に預けられました。従姉妹の家から、越境通学するのですが、自宅から通うより近くて助かりました。
 父は一度退院してきました。六年生の六月、肝性脳症で怪しい、意味不明な行動をしながら、自宅療養していました。毎日看護師さんが注射をしに来てくれていました。
ある土曜日です。下校途中の私に救急車が近づいてきます。ドアが開くと母が、
「早く乗って」
と言いました。注射の途中で容態が変わったのだそうです。父は、大きな目を開けて、ずっと窓を見ています。カーテンがしてあるのに、一体、何を見ているのだろうと思いました。それは、共同偏視で、完全に「父」でなくなっていました。病院に着くと、すぐに心肺蘇生が始まりました。私と母、そして部屋(六人部屋しか空いていなかったようです)の人達は、部屋から出されました。私には、何をしているのか、全く分かりませんでした。しばらくして、伯母が来ました。伯母は、母からおおよその様子を聞くと、私を連れて、伯母の家へ帰りました。翌日早く、電話が鳴り、夜中に亡くなったとの連絡がありました。不思議と、あまり悲しくありませんでした。
それは、父の肝性脳症の奇行が怖かったからです。もう、怖い思いをしないでいいのかと思うと、ほっとしました。しかし、日をおいて、だんだんと父が亡くなったことが悲しくなってきました。いろんな思い出が蘇ります。写真をみると、父が作ってくれた服を着た私、この服も、このズボン…沢山服を作ってくれました。父と二人で行った公園、父が撮ってくれた写真には、満面の笑みの私が写っています。もう、呼んでも返事はありません。

  ☆引越し

 父が亡くなると、従姉妹の向かいの家の大家さんが、離れが空いているんだけれど、どうせ貸すのなら知っている人の方がいいから、引っ越してこないかとの話が出ました。待っていましたとばかり、すぐに引越しをしました。そこは、校区外になり、元居た学校なのですが、あと数ヶ月のために転校するのも面倒だと、越境通学しました。
従姉妹の家には、猫が十一匹いて、動物好きの私には、極楽でした。真夏に伯母が出かけると、帰ってきた時に家の中が暑くなりすぎていてはいけないと、言われた訳でもないのに縁側の戸を開けて、猫と遊びながら留守番をしていました。いろんな猫がいましたが、実際に従姉妹の家の猫は『たま』だけで、あとの十匹は上がりこんできたずうずうしい猫達でした。冬になると、人間用と、猫用のこたつが出ます。猫用を覗くのが楽しかったですね。
従姉妹の家も目の前だし、友達の家も近いし、中学生になれば、元の友達と勉強が出来ます。今思えば、中学生の時期が一番幸せでした。友達と待ち合わせをして自転車で学校に登校しました。 夏に友達が遊びに来ると、炭酸飲料にバニラアイスを浮かべた、母にしては随分、おしゃれなおやつを出してくれました。
また、いつも十時頃になると、「カラン、カラン」と氷の音がして、「あ!」と思うと電話が鳴ります。従姉妹が「お茶飲みにおいで」と。そのうち、電話ではなく、「さくらちゃん、お茶飲みにおいで」と従姉妹が大声で呼ぶようになりました。恥ずかしいので、氷の音がすると、とんで行くようになりました。おばさん、従姉妹、お母さん、私の4人のお茶会。幸せなひと時でした。
 
☆カラーテレビ

世間では、私の生まれる前に出来ていた『カラーテレビ』しかし、生活保護世帯ではあってはならない物だったそうで(いつから解禁になったかは知りません)うちは、昭和五十七年まで白黒テレビをみていました。子供の頃からずっとそうだったので、特に不平不満はありませんでした。ところがある日、学校から帰宅すると、大きなカラーテレビが、登校する時まで白黒テレビが置いてあったところに、鎮座しているではありませんか。喜び勇んで、スイッチをつけました。
「わ~、色がきれい」 当たり前の事が、物凄く嬉しかったです。このテレビは、当然買った物ではなく、母がよそから戴いた物でした。生活保護でもカラーテレビが許されていたのだそうです。多分、ほかの生活保護世帯よりも遅いデビューだろうと思います。 

  ☆第二次性徴期そのニ

体格のいい子供でしたが、父の入院、死亡で、すっかりやせ細っていました。
それでも、少しずつ、発達するところは、発達します。お友達もブラジャーをつけ始めていました。私は、恥かしくて、母に、
「下着を買いたいから付いてきて」
としか言えず、母には、詳しく説明していませんでした。ブラジャーがほしいのだと分かって、母は、少し驚いていました。しかし、ブラジャーには、サイズがあり、自分がどのサイズなのか皆目見当もつきません。母など、問題外です。とりあえず、一番小さいサイズを一枚買ってもらい、家でつけてみましたどうやら、サイズが合ったようです。しかし、「洗い替え」が必要だとは、全く気付いていない母でした。

 ☆最終学歴、中卒?
 
中学は、転校前の友達のいる学校で、懐かしいクラスメートと勉強をしました。     
父が生きていた頃、「中学生になったら、新聞配達をさせる」「中学を出たら働かせる」と言っていました。母は何も言いませんが、貧しい家の子は、義務教育を終えたら働くものだと思っています。雰囲気的に、働いてほしそうです。昭和五十年代に中卒で働く人は少数です。しかし、何と言っても、大正七年、米騒動の年に生まれた母。世間の常識とずれています。高校に行かせないという雰囲気の中、勉強なんてする気になれません。学校から帰ってから、家で教科書を開いた事はありません。定期テストの時でもです。成績は学年で真ん中あたりでした。(今思うと、もったいないですよね。勉強しないで真ん中あたりって…ちゃんと勉強したら何番だったのでしょう?)
 その頃、テレビで、山口百恵さん主演の『赤いシリーズ』で主人公が白血病になるのですが、見ているうちに、白血病に興味をもちました。小学校の図書室の司書の先生がいらっしゃる部屋に『家庭の医学』がありました。先生の許可を得て、読ませてもらっていました。しかし度々先生に許可を貰うのも悪い気がして、お小遣いをためて『家庭の医学』を
買いました。百科事典で解剖生理も勉強しました。その様子を見ていた母が
「看護師になったら?」
と言いました。
まず頭に浮かんだのが、中卒でなくなる!!でした。なんて嬉しい言葉でしょう。しかし、細かい点で、母と私の考えは違っていました。母としては、午前中開業医で下働きをしながら、午後は准看護師学校に行ってほしかったのです。(准看護師の資格を取る人は、このパターンが多いです)しかし、私は、高校の衛生看護科だと、高校卒業資格と准看護師の受験資格が取れるのです。こんな素敵な話はありません。母を説き伏せて、私は、そちらを選びました。(母が通う診療所の看護師さんも高校は出たほうがいいと加勢してくださいました)
  
  ☆衛生看護科

高校の授業は、ハードでした。一般科目に加え、専門科目が入ります。「ゆとり教育」で普通科は五時間で放課になるのに、看護科は七時間目まであったり、普通科は夏休みに入ったのに、私たちは、病院実習をしていたり。定期テストの時は、1時間で三教科分の試験用紙が配られる事も珍しくありませんでした。私の住んでいる地域で衛生看護科のある高校は私の学校だけです。県外から寮に入って勉強する人もいました。
准看の資格を取ってからすぐ働いてほしい母。またここで意見対立です。学校で、「准看護師は昭和六十年を目処に廃止する予定」と教わったのです。これは大変。せっかく准看護師になっても資格が通用しなくなっては意味がありません。母は、上の学校のお金は出せないと言います。確かに、我が家にはそんなお金はありません。私は、奨学金を出してくれる病院を見つけ、奨学生になり、奨学金で高等看護学校に行きました。

☆看護学校

全寮制の学校だったので、入寮しました。初めて家を出ての生活です。心細くて、入寮日まで、泣きそうになったり、ドキドキしたりして過ごしましたが、
「何も、鬼がいて、とって食われるわけでもなし」
と自分で自分を励ましていました。
寮は一部屋四人で、先輩が二人、同級生が二人でした。入寮日の夜、全員が集められ、寮長さんから寮則を教えられました。ものすごく沢山の規則に、やっていけるのだろうかと不安になりましたが、生活しているうちに、家にいるより楽だと気付きました。せんぱいも優しく、同級生とも馬が合い、楽しい生活でした。一年に一回部屋替えがあります。後期は先輩は国家試験があるためでしょうか、学年で部屋が分けられます。
いよいよニ年生。病棟実習です。看護師と言うと優しいイメージがあるでしょうが、実習です。分かっていない子に病人の看護をされたら命にかかわります。嫌というほど質問されます。時には泣くこともあります。そこまで、厳しいのです。
「分からないなら見学やめて。意味がないから」
検査の見学をしたい時には、しっかり調べていかなければなりません。洗髪や足を洗うの
一つ行うのにも、同じです。
実習の終わった時のあの嬉しさ。全員で飛び上がって喜びました。後は、国家試験合格に向けてひたすら勉強の日々でした。
授業は月曜日から土曜日の午前中まであり、
午後は行き先さえはっきりしていれば、外泊も出来ました。私は、毎週家に帰っていました。帰宅の時に洗濯物をもって帰り、家で洗濯をして乾いた物をもって帰っていました。
寮の門限は二十一時だったのでそれまでに帰ればよかったのですが、余裕をもって、いつも十八時に駅に行くようにしていました。いつも母は、駅まで送ってくれました。ある日の事、母は、ふと思い出したように、
「あの、乳バンド、乾いてないから来週ね」
無人駅でしたが、その時には駅には私の他に4~5人、人が居たので、すごく恥ずかしかったです。
結局、母からの仕送りなしで頑張りました。しかし、母の、気持ちとしては、近くの開業医で働けばいいからと准看護師の資格のままでいいと思っていたのです。(正看護師の方が給料が高いのです。なので、開業医は准看護師を雇用したがります)しかし、昭和六十年に准看護師がなくなりはしなかったけれど、正看を取って良かったと思っています。

☆ なぜ?

 しかし、私はどうしても喜べない事があります。父も母も大好きでした。けれども、どうしてこの家に生まれてきたの?と何度恨んだことでしょう。高校時代、私たちは仲良し五人組みでした。この五人で映画を見に行こうという話になりましたが、私にはお金がありません。
「用事があるから」と嘘をついて行かなかったり、どこかへ行こうという時も、私は不参加でした。とても悲しかったです。私だって、気に入った服があれば買ってほしいです。なにも、気に入るたびに買ってほしいと言っているわけではありません。バレエ、ピアノ、も習いたかったです。バレエを習っていたM子ちゃんに着いて、毎週レッスンを見学していました。すると「そんなに毎週来るんだったら、習えば?」と先生にと言われると困るから、一緒に行かないようにと父に言われました。お稽古事の一つもさせてもらいたかったです。贅沢を言っているのではありません。ごく普通の家庭。夏休みに、たまには旅行に行ったり、気に入った洋服があれば、買ってもらえないかな?と考えたり、高校受験のため、中学では一生懸命勉強し…きっと、私の人生は変わっていたでしょう。
職業も違っていたかもしれません。お金がないから、高校にいけない。そう思っていたところへ、「看護師になれば?」といわれて飛びついた衛生看護科(高校)普通の家庭に生まれていれば、迷うことなく普通科に進学したでしょう。
 恨み言を言ったらきりがありません。極々一般的な家庭に生まれたかった。これは、贅沢な事なのですか?同じ境遇の人にしか分かってもらえない話だと思います。

☆ 最後に
 お父さん、お母さん、育ててくれてありがとう。大好きだったよ。ただ、普通の家に生まれたかったよ。普通の…。

テーマ : ひとりごと
ジャンル : ライフ

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